黒染めの歴史

5.明治御一新と染色業界~黒染めの歴史~

明治の大変革を乗り越えて
5.明治御一新と染色業界

 

幕末から新しい秩序を打ち立てる戦いが続き、京都市民もまた蛤御門の変による鉄砲焼けの大火で大きい被害を受け、
その傷も癒えぬ内に鳥羽伏見の戦いと騒然たる世相の続く中で明治御一新(1868)を迎えた

京都に京都府が設けられ、経済活動が新しく始められ、
早くも明治元年九月には商売を行なっている者には従来下付されていた鑑札を全て廃停し、
新鑑札を下付するように布告が出されているが商工業の上にも大きい改革がせまられて来た。
このような大変動の中で茶染屋、紺屋等の大先輩は如何に身を処していったのか想像することも困難である。
その上に加えて天皇は東上したまま帰京されず明治二年(1869)には東京遷都が反対を押し切って実施された。

今まで政治、文化の中心として京都に各地から人々が集まり、多くの人々を基盤に、
そして日本各地を対象に商いが行なわれて来ていたが文武百官が打ち揃って東上してしまい、
各藩邸も閉鎖され、経済的に大きい空白を生じた
また京都の有力商家も東遷した経済の中心を求めて相次いで東上し、京の町も目に見えて衰退し、
時の京都府知事が一有力者の東上阻止を図って訴えられる事件までが起きるような状態であった。
そして高級品の加工を行なっている京都の染織業界は染織物の良き理解者であり、
商いの上得意であった人々の東上によってピンチに追い込まれていった

京都市内は櫛の歯が抜けたように空家が目立つようになり、御所の内外にあった宮家や公卿の邸は無人となり、
人口の減少も著しく、その上、インフレ不況下におかれるなどして経済の不振をまねき、
染色業は苦難の道を歩むことになった。

 

時の政府は京都の苦難に対し、産業振興のため西洋科学知識の普及を図るべく舎密局の仮局を
明治三年十一月に河原町二条に設置し、また勧業場が河原町二条下ル一之船入町の旧長州藩邸に開設され、
これらの施設の活動は京都経済界の再興の基盤となっていた。

京都府の記録によれば明治五年に於ける染色関連業者数は次のようになっている。

  • 石灰並びに諸灰    三四戸
  • 藍蝋、藍玉      一五戸
  • 染艸(染草)       一九戸
  • 染物        五四一戸
  • 紺屋        四〇六戸
  • 藍染         八二戸

染色工場の数が千戸を越している。

こうした時代の激変を業界の先達がどう受け入れていったかは不明である。
しかし舎密局を中心に洋式の染色加工技術の指導が行なわれ、洋粉(化学染料)による染色を手掛ける工場も出て来て
色目の鮮明さで一時は需要も出たと思われるが、当時は塩基性染料が主であり、染法もわからず、
ただ色を着けているだけの状態であって日焼けや変色など品質の低下をまねき、一時顧みられなくなった
そうした事情が有ったのか舎密局では大阪へ人を派遣して英国の黒染法の伝習を行なっている。

 明治六年二月
  本府舎密所用掛上田吉兵衛及ヒ府下染工數名ヲ大阪ニ遺ハシ。
  造幣寮雇入洋入「キンドル」ニ就テ。英國の黒染法ヲ受習セシム

これは洋式染色法、特に黒染を伝習させたものであるが染色の内容はログウッドの鉄媒染による毛織染であり、
当黒染業界の者も大阪へ出張した染工の中に含まれていたものと思われる。

 

当時舎密局では染色技術の振興に力を入れており、また西洋染色術の伝習には特に力を入れていた

オーストリア博覧会の日本事務局随員としてウイーンに出張していた正院(政府)御用掛(農商務省勧業課技師)の
中村喜一郎が帰朝していたので明治七年十二月一日付けをもって京都府に着任せしめ、
ヨーロッパの染色法の伝習に当たらしめた。

中村技師の講習には一般業者を督励して殆んど強制的に聴講せしめたようで
中村はその後十五年まで舎密局染殿でもっぱら染色の指導に当たった。

舎密局では洋式染色法の正しい技法の指導と普及を推進するため舎密局付属として
実験場内に明治八年十一月に染殿を設置し、合成染料の色染法を教授し、
また河原町蛸薬師下ル東入ル備前町に京染場を設置して実物の染色工場として運用し、
一般から受注するようになった。

 

また京都府では夷川通の舎密局の前に西洋色染所を明治九年に設け、
染色の伝習希望者に教授するなど染色技術振興のため多くの施策が講じられた
当業界の多くの先輩も伝習に参加した事と想像される。

しかし茶染業、紺染業、藍染業はいぜん、江戸時代のままの植物染料で染色しており、
輸入された化学染料による染工場を洋粉工場と呼んでおり、
茶染業の一部には油小路四条上ル永井新之助のように洋粉茶染工と呼ばれた茶染工場もあった。

 

次回へ続く→染色業界の組織化

 

【参考文献】

京黒染 著者 生谷吉男 京都黒染協同組合青年部会

    発行者 京都市中京区油小路通三条下ル三条油小路町一六八番地 理事長 古屋 和男

    発行日 昭和六十三年三月三十一日

4.紺屋仲間の変遷~黒染めの歴史~

 

4.紺屋仲間の変遷

 

宝暦六年(1756)に紺屋仲間が結成され、その後の宝暦年間には沙室上代染が仲間を結成している。
沙室上代染仲間は安永二年(1773)に沙室上代更紗染紺屋仲間と改称している。
紺屋仲間と沙室上代染仲間は防染加工して藍による地染をするということでは染色技法が似ているが

防染糊を置き、そのまま藍染しているのが紺屋で、
防染糊の間に刷毛で挿し彩色をする方法を取るのが沙室上代染仲間の仕事の分類に入る。
また両仲間共通の技法として摺り込み法としての南京染もあった。

以上のように染色技法別に仲間は明確に分けられていたことがわかる。

 

天明八年(1788)の大火で仲間の定書の実行が困難となってしばらく推移したが
享和三年(1803)になって仲間組織が再興された。
天明の大火は仲間組織の崩壊を呼ぶほど京都の産業界を痛めつけたようだ。

 

紺屋仲間は模様下染紺屋仲間を文化六年(1809)に合併し、
文政年間(1818~1830)には沙室上代紺屋仲間を併合して大きい紺屋仲間と成長し、
組織が大きいためか、上京、中京、下京と三つの地域に分けた組を作り、三紺屋と称した。

天保の改革で物価の値上げのカルテルの元兇として商工業の仲間制度の廃止がお上より
命じられ紺屋仲間も廃止されたが、嘉永六年(1853)に幕府が仲間組織の利を認めて再び仲間制度を設けた時、
嘉永七年十一月九日には紺屋仲間を再興している。

その後紺屋と類似の仕事をしている彩色屋や糊置職の一部のものを加入せしめ
紺屋仲間は明治維新後七、八年まで続いた。

 

これらの仲間は現在の協同組合組織と多少趣を異にしており同業者の情報交換、従業員対策、
染価の談合と申し合わせ履行の取締り等、染色業者の利益の保護を第一義としている。
当時の仲間は定書、仲間名簿を奉行所に提出してその認可の下で活動し、
冥加金として一年ごとにいくばくかの金子を奉行所に納めている。

紺屋仲間に属する工場の染色物の内容は天保年間に奉行所に提出した文書で知ることができる。
文書による業種区分を見ると紺屋は広範囲の染色業を指すことがわかるが現在の区分から見れば

  • 諸色浸染業
  • 型友禅業 型友褲 友禅更紗
  • 旗印染業
  • 手描友禅業

等がその範囲に入っている。これらの中で模様染と地染が同一工場で行なわれていたので
地染を主として紺屋業と呼称されていたと考えられる。

 

一方こうした模様染が藍による地染によって広く行なわれていたところから当時の染色品は
如何に多くの青地色があふれていたことと推定され、他の色彩の染色法が草木からの染料抽出から始まり
媒染という複雑な技法を必要としたのに対し藍染は建て方 (藍還元溶解する) さえ修得すれば、
染法が比較的簡単であるので広く普及していたのではないかと思う。

紺染業は後日黒染業、友禅業、浸染業及び旗印染業と分化して行く。

そして京黒染業者のルーツを尋ねると紺屋、藍染業の工場も多い

 

次回へ続く→明治の大変革を乗り越えて

      明治御一新と染色業界

 

【参考文献】

京黒染 著者 生谷吉男 京都黒染協同組合青年部会

    発行者 京都市中京区油小路通三条下ル三条油小路町一六八番地 理事長 古屋 和男

    発行日 昭和六十三年三月三十一日

3.京の紺屋仲間の結成~黒染めの歴史~

 

3.紺屋仲間の結成

 

京黒染の歴史を見ると、茶染屋が中心となって黒色を染めていたが江戸期には既に藍
の下染が行なわれており、藍染、紺染業とは連帯の間柄である上、大正から昭和の初期
にかけ直接染料による浸染黒へ業界が転換していった際、藍染、紺染業が黒浸染に業種
転換を行ない、黒染業者となった経過から京黒染の歴史を共に作って来たと認識したい。

 

藍染業と紺染業の二つの業種は同じ藍を用いて染色する業種であるが、明治時代では
この二業種について古老の証言や、京都府著名物産調によると次のように区分されている。

また江戸時代も同じような事業区分があり、後述のように紺染業は広い範囲にわたっている。

 

藍染業  藍による青色無地染色
紺染業  各種の型置のり防染したものを藍によって青色地染をする

 

以上の外に中形紺染業もあり、中形の型置と地染を行なっていた。
したがって後年、友禅業として盛業した工場も紺屋業の中に名前が見られる。


江戸時代以前十三世紀頃から藍染、紺染業の専業化が始まったようで、
十七世紀には日本各地で紺屋が存在していた。


京の紺屋は元禄五年の頃、油小路一条下ル又左衛門、麩屋町四条下ル、東堀川夷川と
三条間と「萬買物調方記」 に記されているが、紺屋系統の黒染工場の中に現在柊屋の家号を継ぐ工場は多い。
柊屋の始祖は江戸初期まで遡及できる。

 

代々、柊屋佐助(小谷)を名乗り、綾小路西洞院東入ル(万延二年正月)に所在していたが
元治元年(一八六四)に西洞院四条下ルに転居して昭和まで活躍し、多くの別家を輩出している。
言い伝えによれば先祖は織田信長に討たれた江州小谷域主の浅井家であり、江戸時代に入り
紺屋を営み連綿として続いて今日にあると言う。


紺屋の仕事内容を大きく括ると、

 

1、型付之類地合何二不寄色物之義者紺屋職二テ相染侯義二御座候

 

とあるように、どのような生地でも型防染したものを色物(紺色)に染めるのは紺屋職で
あると言い切っている。
こうした考え方で後述のょうに紺屋仲間が他の類似業種をも傘下に吸収していったようだ。


紺屋同業者は宝暦六年(一七五六)に京都町奉行に紺屋仲代、
升屋九右衛門外十一名連署で次のような願書を提出している。

 

年恐奉願ロ上書

 

そしてその内容に、
私共は当地で紺屋の仕事をしており上は中立売より下は松原の間に住いしている同業者は約八十軒余(八十二軒)あります。
と述べてあり、当時の紺屋の数がわかる。


また願書には次のよう に述べられている。

職人の義故幼少ヨリ召抱候子飼ノ弟子奉公人年季相極召使候処漸細工等モ候者年季ノ内理不
尽ノ暇ヲ乞ヒ同職ノ方へ参り賃銀ヲ取働申候族モ有之且又手間取細工人ノ義モ給銀ニテ相極メ
召抱候慮以前ト違ヒ近年ハ惣体勤方不將二相成賃銀前借仕ナカラ極メノ細工等ニ不参同職ノ方へ
参又々増銀前借仕最初雇申者殊ノ外難義手支二相成申合等モ仕候得共取締モ不仕各勝手尽ノ品モ
有之故自然ト奉公人並二手間取共勝手盛仕候依之右体之不道理不仕候様

 

当時 の紺屋は従業員対策で悩まされており、現代感覚では受け入れ難い考え方でもあるが、

 

「年季を定め召使っている弟子、奉公人が仕事を覚えると約束の年季が明けない内
に退職して同業他工場へ働きに行き賃金を取っている外、細工人(職人)も以前と異なって
勤務態度が悪く賃金を前借りしてもよい仕事をせず、その上、同業者へ転職して前借りするなどして、
始めに雇った者が迷惑している等々により年行事(役員)を定め同業者間で取締りたいから許可してほしい。」

 

以上のような内容で奉行所に願い出ている。封建時代で主従の関係が確立していた筈であるが、
紺屋は従業者に振り回されていた様子が伺える。


本願書を出してから二ケ月後、紺屋仲間が組織されており、仲間が相集い、
従業員対策を立てて文書化し、定書を作り、結束を誓っている。


紺屋八十二人で交した紺屋仲間定書は次のようである。


1、紺屋仲間は上京、中京、下京に八十二軒の多人数です。これまで召抱えている奉公人、弟子、手間取、
 日雇細工人(職人) 等は勤務その他が勝手気儲な行動があり、それぞれの紺屋ではそれぞれにおいて対処していました。
 この度、紺屋一同が話し合い、同意を得ましたので仲間の取締りのための役員を定め、奉公人、手間取の取締りや
 商売が円滑にゆくように定を作り順番を定めて役員を勤めさせていただきたいとせんだって八十二軒の代表として
 升屋九右衛門外十一名連署でお願い申し上げましたところ、ご検討の結果、役員設置の件許可いただきましたので、
 紺屋仲間で合議の上、定書を次のように決定致しました。
1、紺屋仲間所属八十二軒を地域で宝組十五軒、槌組十九人、玉組二十人、船組二十八人と分け、
 一組に二人宛の役員を選出します。
1、役員は全ての紺屋の中から順番に立て本年から一ヶ年ずつ回り持ちにする。
1、役員は全てまじめに勤め、会合の節は早く出席し、何事によらず正しく差配し、勝手な振る舞いをしない事。
1、年行事(役員)は順番に交替して勤めるべきであるが理由なく辞退することがあってもその理由を届出て差し支え
 ないものが勤める事。
1、年行事を勤めているものがけしからん振る舞いをしたならば早速他の人に年行事を交替する。
 もちろんその際はその決定に従う事。
1、何事にょらず年行事は自分勝手に行動せず、紺屋中に知らせ事業を行なう事。
 以上には紺屋仲間の役員についての条項であり、役員の交替、勤め方について述べられている。
 その後、九項以下においては本定書の主目的である従業員についての申し合わせ事項が列記されている。


この中を見ると当時の従業員には次のような種別が見られる。


年季奉公人
細工人
手間取(日雇、半季)


これら従業員に対し仲間ではその取り扱いについて続いて申し合わせている。


1、それぞれの工場で弟子として雇入れる長期契約の奉公人は親元や保証人をよく確かめ、
 請書に印鑑艦を押させてから雇入れる事。
1、職人(細工人)に申し伝えなければならない事がある場合は関係の年行事の立ち合いで行なう事。
1、勤務している奉公人が長期契約の期間、無事勤め上げ、紺屋職に入ろうとする者にはその雇主から年行事に報告し、
 商売ができるように世話する事。
1、奉公人が契約期間、勤めたも のは雇主と年行事に指導を請い、仕事を始める事。
1、年季奉公人が勝手に退職し、また契約期間中、不行跡や勤務不良の者はその件につき組し、
 紺屋は申すに及ばず似た商売に携さわせない。
1、紺屋の中で奉公途中にその工場を出たものは紺屋の仲間中では雇入れない事。
1、給与を取る奉公人を雇入れる際は充分に経歴等よく聞き取る事。
1、給与取りに対しては半年季又は一年の契約とし、紺屋に入り、賃金の前借りをしながら仕事もせず、
 契約途中で他の紺屋に行って仕事をすることが度々有ったが今後、
 このようなことが起こらないよう に工場間でよく聞き合わせてこのような不好な者を雇入れないようにする事。
1、給与取職人の雇入れ時期は今後、二回に分け、五月の節句後、十一月一日後に定める。
1、給与取の賃金はその時の物価に準じて定める事。
1、半季の職人の前借りは銭三貫目を限度にする。しかし勤務が続かないものには相応にすべきの事。
1、日雇の者には前借りをさせない事。
1、給与取職人の雇入れ、退職の際は年行事に報告する事。
1、職人を雇入れ、賃金を定め、前借りしたものは職人より証文を取っておく事。


等、従業員対策の数々が同業者間に定められている。


この文書によるとその時代には日雇労務、給料取りと賃金のもらえる職人は二種類に
限られていたが定書を見る限り半期、一年と契約が別れていたようで仲間では紺屋の中では一応、
五月と十一月の二回に分けるとなっており、おそらく半年ごとの給料であったと思われる。
そのためその日暮しであった人々は生活のため給料の前借りをせざるを得なかったのではないかと
考えると定書に書かれた職人さんとのトラブルが発生する素地は給与体系にあったと言えよう。

 

次回(4月1日更新)へ続く→紺屋仲間の変遷

 

【参考文献】

京黒染 著者 生谷吉男 京都黒染協同組合青年部会

    発行者 京都市中京区油小路通三条下ル三条油小路町一六八番地 理事長 古屋 和男

    発行日 昭和六十三年三月三十一日

2.江戸時代の茶染業~黒染めの歴史~

2.江戸時代の茶染業

 

こうした茶染屋の存在は明らかであるが、江戸時代の度重なる大火で記録が失われて
おり、

茶染業の多くを明らかに出来ないが”京羽二重”には茶染師について営業内容と
茶染工場の所在を名称不明であるが記している。

茶染師

一切色々の茶、吉岡、楕拠子染等これをなす。室町一条の北に茶染師の名家あり。

其外西洞院四条坊門より南にあり。

室町一条上ルの茶染の名家については不明であるが、西洞院四条下ルには古くは吉岡
憲法家があり、何か関係があるのではないかと思われる。

又、天保二年(一八三1)刊行
「商人買物獨案内」に茶染屋として次の三軒が名を出している。

 

・糸茶染所 元誓願寺堀川西へ入町  山形屋作兵衛

本梅椰子染所

・お召茶染所 西洞院二条上ル東側  鍵屋嘉兵衛

本檳榔子染

・お召茶染所 西洞院二条上ル二町目  柏家平兵衛

 

面白い事に鍵屋も柏家も「商人買物獨案?」に広告文を記載し、鍵屋は本檳榔子染に
ついては世間には色々の看板を上げて染めているところがあるが私の家は先祖伝来の染法で行なっており、

染上り品の反末には印形を押して差し上げますので名前をよく確かめて下さい」とことわっている。

又、柏屋平兵衛では次のような長文を記載し、檳榔子染の効用を誇示し、他の黒染と
の格差を強調している。その所在地は現在(昭和63年当時)も変っていない。


一本ひんろうじ染之儀ハ、私家二先祖より本法の染方相伝御座候而、格別御召地之御為宜く、

地性よくしまり、つやよく、次第二上品之黒ミ出、色合不替、地合よハり不申候間、

御着用被遊候て、其功能甚多候。且、檳榔子茶種の功能、

是又多御座候得而、本艸之書=くハしく見え候由。

故=衣類”染用候而、第一風寒雨露湿気を不受、暖温の悪気を払ひ、妖邪不浄を退く、

其口候へハ、黒染と申ハ皆ひんろうし染=限り、御上着物=御座候。

然ルニ檳榔子染ハ料志六ケしく相成候節、吉岡兼法と申人、檳榔子を不用、

はくろにて染出し、 是より以来けんぼう黒のミニ相成、檳榔子染ハ名のミニて、

本法の染方知る者さへ無之、中絶仕候。

然る=近年、檳榔子多分渡り 下直=相成候故、別而御為宜く侯様、そめくさ 沢山=相用ひ、

色合よく格別入念下直=出来仕、奉差上候。何卒御染させ被下、御ためしの上、

追々御用被仰付可被下侯様、 奉願上侯、


御召茶染所       西洞院二条上ル二町目
                 柏屋平兵衛

近来、嶺拠子染と申、世間=段々類染多出来仕候而、

甚紛敷御座候間、私方之染ハ、御地之端又ハ御衿肩=「檳榔子、 柏平」 如此印致、

さし上申侯。御吟味之上御用被仰付可被下侯、巳上。


                    文化十四年丑十一月=相改

 

両者共檳榔子染の前に「」という冠称を付けて本物を強調し、本文では楊梅皮によ
る黒染と一線を画しており、

近来憲法染 の黒のみになっており、核郷子染は名ばかりで檳榔子染の染法も忘れ去られていたが、

最近になって核憾子が多く舶載され、値も下ったので染料を多く用いて入念に染め安価に出来るようになったことが強調され、

他工場でも檳榔子染と称して多く染めているが本工場では当方の責任印を押していると記されており、

当時でも色々の面で競争しており、反末の捺印 による保証などは現在にも通ずる話である。

この文の中に檳榔子の薬用について瘴気による病気や風邪を直すなどの効用が本草(薬学)に書かれているが

この薬を染料として使うため染めた衣服を着用すれば諸々の悪邪をしりぞけると強調しており、

薬用植物で染色しているという着用者の心理をつく内容となっている。

本文中に檳榔子染憲法染より以前にあり、吉岡憲法が檳榔子染
とら檳榔子を抜いて黒染法を完成したとあるが、史実に乏しい。

茶染屋の営業色相については一応どんな色でも扱っていたとは言われているが、

桂染工場 に現存する明治三十三年巴里薦国博覧会に出品して

金賞を得た染色切れを貼り付けた金屏風を見ると染色された色相名は次のようになっている。

・61色ほどある。

以上の色相は全てダーク調であり、茶染屋の取り扱い色目は第三章でもわかるように

五倍子、楊梅皮を中心とした媒染々色であったため、主流の色合いは黒、 グレーを基調としたものとなっている。

紅、紫、紺色等の単彩な鮮明色はそれぞれ専門の職種があり、

鮮美色は京羽二重に登場してくる紅染司である小紅屋和泉禄や松屋伝右衛等、紫染司の江戸屋源兵衛等が染
していたのであろう。

当時の染色業者は呉服商の下職、つまり委託加工として染色業を営んでいたが、呉服商も染色工場を独占したり、

我が意の通り動かそうと図っていたと思われるが、

一方染工場側も預り商品の入質等を行なう不埼な工場もあったようで、

お上に取締りを願い出たり、また呉服業者が出入りの染色業者より

保証人連署の誓約書を取るなどして不正を防止していたようで

江戸後期においては取引上色々と問題が起きていたことが伺われる。

そうした中で現在の組合組織である茶染仲間が寛政十二年(一八〇〇)には既に結成されており、

次のような茶染業者が加入していたと見て差し支えない。

 

・十文字屋喜兵衛

・六文字屋庄兵衛

・柏屋甚 助

・井筒屋平兵衛

・柏 屋平兵衛

・鍵屋嘉兵衛

・丸屋勘兵衛

・井筒屋善兵衛

・小屋源助

 

次回(3月4日更新)へ続く→京の紺屋仲間の結成

 

【参考文献】

京黒染 著者 生谷吉男 京都黒染協同組合青年部会

    発行者 京都市中京区油小路通三条下ル三条油小路町一六八番地 理事長 古屋 和男

    発行日 昭和六十三年三月三十一日

1. 黒染の始まり~黒染めの歴史~

 

1. 黒染業の創始

 

黒染がなりわいとして文献に現われてくるのは四条西洞院に居をかまえていた吉岡憲である。

兵法家として名高く小説宮本武蔵にも登場しているが、永く四条西洞院で憲法染として営業をしていたようだ。

そして吉岡家の開発した黒染は当時黒茶染とも呼ばれ、

 

「憲法染」
「けんぼう染」
「吉岡染」


の名称が固有名詞として付けられ、広く染色家にて染められていた。

現在の黒染業者のルーツを系譜によって訪ねてゆくと、明治及びその以前においては染色業の中で次のような職種に分かれていた。

 

イ、茶染 黒及び茶系色、グレー等の鮮美色以外の染色
ロ、紺屋 型付防染したものの地染、黒染の下染票
ハ、監染 紺色の無地染


こうした江戸時代の三職種の中で黒染を行なっていた茶染業 について黒染業界内の文献、言い伝え等によって現存工場のルーツを探ると次の三社に行きつく。

 

柏屋平兵衛  創業 宝暦十三年(一七六三) 
柏屋甚助   創業 明和 元年(一七六四) 
小桝屋源助  創業 文 政四年(一八二1)  

 

これらの工場が黒染業界の祖と考えられる。

このような現在盛業中の工場の外に廃業されているとはいえ業界の重鎮として江戸時代から明治、大正、昭和と永く業界に貢献した工場として次のような工場があった。

 

井筒屋  松村平兵衛 創業 慶長年間(一五九六~一六一四)
丸屋   木村勘兵衛 創業 享保十年(一七ニ六)

 

柏屋平兵衛の初代長治兵衛は主家柏屋善之助方で二十五年の間徒弟、

番頭を経て宝暦十三年、三五歳で宿這りし「柏屋平兵衛」を創始した。したがって現存する黒染工場中最も創業が古く、

次いで明和元年(一七六四)に初代柏屋甚助、西洞院四条上ルで別家独立している。

初代甚助は茶染業であった柏屋治右衛門(中村屋)に奉公、茶染業を修業し、

主家が代々後家となったため踏み止どまって面倒を見ていたが、主家からの勧めもあり、明和元年(一七六四)に柏屋を継ぎ別家独立した。

別家独立後、町内(鰭鄭山町、古西町)の当時の青年会の世話をし、町内の人々によく慕われていた。

 

その後天明の大火(一七八八)に遭い、家を焼失したが、西洞院蛸薬師下ル古西町の町家 (町内の持家)を町内の方々の好意により購入して移転した。

蛤御門の変(元治元年(一八六四))の大火では柏屋甚助工場も大火に遭い、家・工場共に焼き出されたが、書類やその他重要品は井戸 に投げ入れたり、

蔵にしまったりして難をまぬがれたと伝えられている。

 

柏屋平兵衛、記録によれば文化年間に既に大きく活躍をしていたと思われるが、

現存する記録も少なく、言い伝えも途絶えているので江戸時代の活動は不明である。

しかし柏屋を称する茶染屋となると主家の柏屋治右衛門に継がれるのではないだろうか。

また江戸時代よりの住所である西洞院夷川上ルの奥田家本家は広い敷地を占めていることや、

後述の文化年間の広告文等から推定して当時から手広く工場を経営していたと推定される。(昭和63年時点)

 

次回(2月25日更新)へ続く→江戸時代の茶染業

 

【参考文献】

京黒染 著者 生谷吉男 京都黒染協同組合青年部会

    発行者 京都市中京区油小路通三条下ル三条油小路町一六八番地 理事長 古屋 和男

    発行日 昭和六十三年三月三十一日