4.紺屋仲間の変遷~黒染めの歴史~

 

4.紺屋仲間の変遷

 

宝暦六年(1756)に紺屋仲間が結成され、その後の宝暦年間には沙室上代染が仲間を結成している。
沙室上代染仲間は安永二年(1773)に沙室上代更紗染紺屋仲間と改称している。
紺屋仲間と沙室上代染仲間は防染加工して藍による地染をするということでは染色技法が似ているが

防染糊を置き、そのまま藍染しているのが紺屋で、
防染糊の間に刷毛で挿し彩色をする方法を取るのが沙室上代染仲間の仕事の分類に入る。
また両仲間共通の技法として摺り込み法としての南京染もあった。

以上のように染色技法別に仲間は明確に分けられていたことがわかる。

 

天明八年(1788)の大火で仲間の定書の実行が困難となってしばらく推移したが
享和三年(1803)になって仲間組織が再興された。
天明の大火は仲間組織の崩壊を呼ぶほど京都の産業界を痛めつけたようだ。

 

紺屋仲間は模様下染紺屋仲間を文化六年(1809)に合併し、
文政年間(1818~1830)には沙室上代紺屋仲間を併合して大きい紺屋仲間と成長し、
組織が大きいためか、上京、中京、下京と三つの地域に分けた組を作り、三紺屋と称した。

天保の改革で物価の値上げのカルテルの元兇として商工業の仲間制度の廃止がお上より
命じられ紺屋仲間も廃止されたが、嘉永六年(1853)に幕府が仲間組織の利を認めて再び仲間制度を設けた時、
嘉永七年十一月九日には紺屋仲間を再興している。

その後紺屋と類似の仕事をしている彩色屋や糊置職の一部のものを加入せしめ
紺屋仲間は明治維新後七、八年まで続いた。

 

これらの仲間は現在の協同組合組織と多少趣を異にしており同業者の情報交換、従業員対策、
染価の談合と申し合わせ履行の取締り等、染色業者の利益の保護を第一義としている。
当時の仲間は定書、仲間名簿を奉行所に提出してその認可の下で活動し、
冥加金として一年ごとにいくばくかの金子を奉行所に納めている。

紺屋仲間に属する工場の染色物の内容は天保年間に奉行所に提出した文書で知ることができる。
文書による業種区分を見ると紺屋は広範囲の染色業を指すことがわかるが現在の区分から見れば

  • 諸色浸染業
  • 型友禅業 型友褲 友禅更紗
  • 旗印染業
  • 手描友禅業

等がその範囲に入っている。これらの中で模様染と地染が同一工場で行なわれていたので
地染を主として紺屋業と呼称されていたと考えられる。

 

一方こうした模様染が藍による地染によって広く行なわれていたところから当時の染色品は
如何に多くの青地色があふれていたことと推定され、他の色彩の染色法が草木からの染料抽出から始まり
媒染という複雑な技法を必要としたのに対し藍染は建て方 (藍還元溶解する) さえ修得すれば、
染法が比較的簡単であるので広く普及していたのではないかと思う。

紺染業は後日黒染業、友禅業、浸染業及び旗印染業と分化して行く。

そして京黒染業者のルーツを尋ねると紺屋、藍染業の工場も多い

 

次回へ続く→明治の大変革を乗り越えて

      明治御一新と染色業界

 

【参考文献】

京黒染 著者 生谷吉男 京都黒染協同組合青年部会

    発行者 京都市中京区油小路通三条下ル三条油小路町一六八番地 理事長 古屋 和男

    発行日 昭和六十三年三月三十一日