1. 黒染業の創始
黒染がなりわいとして文献に現われてくるのは四条西洞院に居をかまえていた吉岡憲法である。
兵法家として名高く小説宮本武蔵にも登場しているが、永く四条西洞院で憲法染として営業をしていたようだ。
そして吉岡家の開発した黒染は当時黒茶染とも呼ばれ、
「憲法染」
「けんぼう染」
「吉岡染」
の名称が固有名詞として付けられ、広く染色家にて染められていた。
現在の黒染業者のルーツを系譜によって訪ねてゆくと、明治及びその以前においては染色業の中で次のような職種に分かれていた。
イ、茶染 黒及び茶系色、グレー等の鮮美色以外の染色
ロ、紺屋 型付防染したものの地染、黒染の下染票
ハ、監染 紺色の無地染
こうした江戸時代の三職種の中で黒染を行なっていた茶染業 について黒染業界内の文献、言い伝え等によって現存工場のルーツを探ると次の三社に行きつく。
柏屋平兵衛 創業 宝暦十三年(一七六三)
柏屋甚助 創業 明和 元年(一七六四)
小桝屋源助 創業 文 政四年(一八二1)
これらの工場が黒染業界の祖と考えられる。
このような現在盛業中の工場の外に廃業されているとはいえ業界の重鎮として江戸時代から明治、大正、昭和と永く業界に貢献した工場として次のような工場があった。
井筒屋 松村平兵衛 創業 慶長年間(一五九六~一六一四)
丸屋 木村勘兵衛 創業 享保十年(一七ニ六)
柏屋平兵衛の初代長治兵衛は主家柏屋善之助方で二十五年の間徒弟、
番頭を経て宝暦十三年、三五歳で宿這りし「柏屋平兵衛」を創始した。したがって現存する黒染工場中最も創業が古く、
次いで明和元年(一七六四)に初代柏屋甚助、西洞院四条上ルで別家独立している。
初代甚助は茶染業であった柏屋治右衛門(中村屋)に奉公、茶染業を修業し、
主家が代々後家となったため踏み止どまって面倒を見ていたが、主家からの勧めもあり、明和元年(一七六四)に柏屋を継ぎ別家独立した。
別家独立後、町内(鰭鄭山町、古西町)の当時の青年会の世話をし、町内の人々によく慕われていた。
その後天明の大火(一七八八)に遭い、家を焼失したが、西洞院蛸薬師下ル古西町の町家 (町内の持家)を町内の方々の好意により購入して移転した。
蛤御門の変(元治元年(一八六四))の大火では柏屋甚助工場も大火に遭い、家・工場共に焼き出されたが、書類やその他重要品は井戸 に投げ入れたり、
蔵にしまったりして難をまぬがれたと伝えられている。
柏屋平兵衛、記録によれば文化年間に既に大きく活躍をしていたと思われるが、
現存する記録も少なく、言い伝えも途絶えているので江戸時代の活動は不明である。
しかし柏屋を称する茶染屋となると主家の柏屋治右衛門に継がれるのではないだろうか。
また江戸時代よりの住所である西洞院夷川上ルの奥田家本家は広い敷地を占めていることや、
後述の文化年間の広告文等から推定して当時から手広く工場を経営していたと推定される。(昭和63年時点)
次回(2月25日更新)へ続く→江戸時代の茶染業
【参考文献】
京黒染 著者 生谷吉男 京都黒染協同組合青年部会
発行者 京都市中京区油小路通三条下ル三条油小路町一六八番地 理事長 古屋 和男
発行日 昭和六十三年三月三十一日