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紋付の歴史と風俗

紋付の歴史と風俗

紋付の歴史と風俗

今日、女性の黒紋付は不祝儀の際の正式礼装とされています。
しかし、その歴史は意外に新しく、明治32年(1899)、永照皇太后(明治天皇御母)が亡くなられた際に、当時の宮内省(現宮内庁)が「喪服は白衿紋付」と告示したのがきっかけ。そのころは一部の上流婦人たちの風習で、一般に定着したのは昭和に入ってからと言われています。
なお、男性の正式礼装である紋付羽織袴は元来、江戸時代の武家の日常着でした。後に上層町人が式服として着用するようになり、祝儀・不祝儀両用の礼服として、現代に引き継がれています。

 

死者を悼み、そのけがれを忌むために喪服を着る習慣は、古くから世界各地で行われていました。
古代の日本でも、藤葛などの繊維を織った「ふじごろも」と呼ばれる粗末な服が用いられていたようです。
また、素服と書いて「あさのみそ」「いろ」などと呼んだという記録も残っています。

これが正式の喪服として定められたのが奈良時代のこと。
「養老令」によれば、天皇の着るべき喪服が、死者の身分に応じて定められており、
錫紵(しゃくじょ)と呼ばれる浅黒色の喪服も含まれていました。
しかし、一般の喪服はまだまだ、「いろ」「いろぎ」などと呼ばれる生地のままの麻服が主流。
「いろなし」の略語あるいは「白」の反語が、その語源と考えられています。

この時代の宮中では、「素服」という言葉が黒い袍(わたいれ)を意味するほどに、黒い喪服が普及します。ひとつには椽染(つるばみ)をはじめとする黒染の技術が発達したからでしょうか。

ただ、同じ黒といっても死者との縁の遠近や服喪の時期によって使い分けがあり、死者との縁が近いほど黒い服(重服)を、遠いほど鈍色(にびいろ)(薄墨)の服(軽服)を用いていました。「中将の君、鈍色の直衣、指貫うすらかに衣がへして」…妹である葵の上の法事の後、その夫である光源氏を見舞った三位中将の装いです。