【黒染・服】お客様の声
これまでに届きましたお客様の声を掲載させていただきます。
お世話になりました
11月2日に届きました
もう着られないかな~と思っていたのが新品の様になったのでビックリ!!
処分しないでよかったです
どうもありがとうございました
千葉県 T.Y様
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お世話になりました
11月2日に届きました
もう着られないかな~と思っていたのが新品の様になったのでビックリ!!
処分しないでよかったです
どうもありがとうございました
千葉県 T.Y様
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ワンピース・ボレロの黒染依頼し、お品が到着しました。
大満足の仕上がりです!!
あきらめずに依頼してみて良かった!!
ありがとうございました。
東京都 I.H様
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8/17にお問合せ、黒染をお願いしていたワンピースですが、9/22無事に手元に届いております。
想像以上に美しい黒でした!
いつもは買わないカーキー色でも着てみようかと思い購入したワンピースでしたが、結局殆ど着ていませんでした。
今回黒く新しいワンピースに生まれ変わって、本当に嬉しかったです。
縫い目は黒に染まらないとの事でしたが、ステッチ部分がワンポイントになっていて良い感じでした。プレスもしていただき大変綺麗な仕上がりでした!
早速着てみましたが、(少し縮むかもとのお話でしたが、全く問題ありませんでした!)やはり黒が好きだなぁと、実感しています。着る回数が間違いなく増えそうです。
思い切って黒染お願いして良かったです。
この度は本当にありがとうございました。
追伸 またお願いしたい物がありますので近々連絡させていただきます!今後ともよろしくお願いいたします。
Y.Y様
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暑中お見舞い申し上げます
先日はきれいに黒染めしていただきありがとうございました。
これからもお気に入りをお手入れしながら大切に着ていこうと思います。
京都府 M.T様
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大変にお世話になりました
とってもキレイに染まってますね
ありがとうございます
思っていたよりステキな黒でとっても気に入りました
漂白剤が飛んでしまい悲しかったですが
また!活躍してくれるお気に入りのパンツができました
100点です♪
ありがとうございました
群馬県 I.H様
********
先日時間指定通りに品物が届きました。ありがとうございました。
パンツの縮みが心配でしたが、問題なく履けました。
仕上がり良く、洋服が甦り感激しています。
コロナ感染、残暑とまだ続いていますがご自愛くださいませ。
千葉県 Y.M様
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暑中お見舞い申し上げます
黒染にしてもらいましたポロシャツ 誕生日に配達されました。
本当にありがとうございます。
暑い中での作業ご苦労様です。
皆様の健康をお祈り申し上げます。
東京都 Y様
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前略
この度は帽子を思い通りに真っ黒に染めていただきありがとうございました。
もう無理かと思いながらお願いしましたが、新品のようになり大満足しております。
愛着のある物で、また使えることが夢のようです。
大切に使わさせていただきます。
ひとこと、御礼が言いたくて一筆書かせていただきました。
御礼まで
大阪府 H . Y様
◆◆◆◆◆
本日 依頼しておりました コートの黒染め 出来上がりが届きました。
とても綺麗に染めて頂き 感動しております。
又このコートが着れると思うと嬉しくて 感謝のかぎりです。 友人も そめたいと言ってました。
本当に有難う御座いました。
御礼まで
大分県 T.K様
3.紺屋仲間の結成
京黒染の歴史を見ると、茶染屋が中心となって黒色を染めていたが江戸期には既に藍
の下染が行なわれており、藍染、紺染業とは連帯の間柄である上、大正から昭和の初期
にかけ直接染料による浸染黒へ業界が転換していった際、藍染、紺染業が黒浸染に業種
転換を行ない、黒染業者となった経過から京黒染の歴史を共に作って来たと認識したい。
藍染業と紺染業の二つの業種は同じ藍を用いて染色する業種であるが、明治時代では
この二業種について古老の証言や、京都府著名物産調によると次のように区分されている。
また江戸時代も同じような事業区分があり、後述のように紺染業は広い範囲にわたっている。
藍染業 藍による青色無地染色
紺染業 各種の型置のり防染したものを藍によって青色地染をする
以上の外に中形紺染業もあり、中形の型置と地染を行なっていた。
したがって後年、友禅業として盛業した工場も紺屋業の中に名前が見られる。
江戸時代以前十三世紀頃から藍染、紺染業の専業化が始まったようで、
十七世紀には日本各地で紺屋が存在していた。
京の紺屋は元禄五年の頃、油小路一条下ル又左衛門、麩屋町四条下ル、東堀川夷川と
三条間と「萬買物調方記」 に記されているが、紺屋系統の黒染工場の中に現在柊屋の家号を継ぐ工場は多い。
柊屋の始祖は江戸初期まで遡及できる。
代々、柊屋佐助(小谷)を名乗り、綾小路西洞院東入ル(万延二年正月)に所在していたが
元治元年(一八六四)に西洞院四条下ルに転居して昭和まで活躍し、多くの別家を輩出している。
言い伝えによれば先祖は織田信長に討たれた江州小谷域主の浅井家であり、江戸時代に入り
紺屋を営み連綿として続いて今日にあると言う。
紺屋の仕事内容を大きく括ると、
1、型付之類地合何二不寄色物之義者紺屋職二テ相染侯義二御座候
とあるように、どのような生地でも型防染したものを色物(紺色)に染めるのは紺屋職で
あると言い切っている。
こうした考え方で後述のょうに紺屋仲間が他の類似業種をも傘下に吸収していったようだ。
紺屋同業者は宝暦六年(一七五六)に京都町奉行に紺屋仲代、
升屋九右衛門外十一名連署で次のような願書を提出している。
年恐奉願ロ上書
そしてその内容に、
私共は当地で紺屋の仕事をしており上は中立売より下は松原の間に住いしている同業者は約八十軒余(八十二軒)あります。
と述べてあり、当時の紺屋の数がわかる。
また願書には次のよう に述べられている。
職人の義故幼少ヨリ召抱候子飼ノ弟子奉公人年季相極召使候処漸細工等モ候者年季ノ内理不
尽ノ暇ヲ乞ヒ同職ノ方へ参り賃銀ヲ取働申候族モ有之且又手間取細工人ノ義モ給銀ニテ相極メ
召抱候慮以前ト違ヒ近年ハ惣体勤方不將二相成賃銀前借仕ナカラ極メノ細工等ニ不参同職ノ方へ
参又々増銀前借仕最初雇申者殊ノ外難義手支二相成申合等モ仕候得共取締モ不仕各勝手尽ノ品モ
有之故自然ト奉公人並二手間取共勝手盛仕候依之右体之不道理不仕候様
当時 の紺屋は従業員対策で悩まされており、現代感覚では受け入れ難い考え方でもあるが、
「年季を定め召使っている弟子、奉公人が仕事を覚えると約束の年季が明けない内
に退職して同業他工場へ働きに行き賃金を取っている外、細工人(職人)も以前と異なって
勤務態度が悪く賃金を前借りしてもよい仕事をせず、その上、同業者へ転職して前借りするなどして、
始めに雇った者が迷惑している等々により年行事(役員)を定め同業者間で取締りたいから許可してほしい。」
以上のような内容で奉行所に願い出ている。封建時代で主従の関係が確立していた筈であるが、
紺屋は従業者に振り回されていた様子が伺える。
本願書を出してから二ケ月後、紺屋仲間が組織されており、仲間が相集い、
従業員対策を立てて文書化し、定書を作り、結束を誓っている。
紺屋八十二人で交した紺屋仲間定書は次のようである。
1、紺屋仲間は上京、中京、下京に八十二軒の多人数です。これまで召抱えている奉公人、弟子、手間取、
日雇細工人(職人) 等は勤務その他が勝手気儲な行動があり、それぞれの紺屋ではそれぞれにおいて対処していました。
この度、紺屋一同が話し合い、同意を得ましたので仲間の取締りのための役員を定め、奉公人、手間取の取締りや
商売が円滑にゆくように定を作り順番を定めて役員を勤めさせていただきたいとせんだって八十二軒の代表として
升屋九右衛門外十一名連署でお願い申し上げましたところ、ご検討の結果、役員設置の件許可いただきましたので、
紺屋仲間で合議の上、定書を次のように決定致しました。
1、紺屋仲間所属八十二軒を地域で宝組十五軒、槌組十九人、玉組二十人、船組二十八人と分け、
一組に二人宛の役員を選出します。
1、役員は全ての紺屋の中から順番に立て本年から一ヶ年ずつ回り持ちにする。
1、役員は全てまじめに勤め、会合の節は早く出席し、何事によらず正しく差配し、勝手な振る舞いをしない事。
1、年行事(役員)は順番に交替して勤めるべきであるが理由なく辞退することがあってもその理由を届出て差し支え
ないものが勤める事。
1、年行事を勤めているものがけしからん振る舞いをしたならば早速他の人に年行事を交替する。
もちろんその際はその決定に従う事。
1、何事にょらず年行事は自分勝手に行動せず、紺屋中に知らせ事業を行なう事。
以上には紺屋仲間の役員についての条項であり、役員の交替、勤め方について述べられている。
その後、九項以下においては本定書の主目的である従業員についての申し合わせ事項が列記されている。
この中を見ると当時の従業員には次のような種別が見られる。
年季奉公人
細工人
手間取(日雇、半季)
これら従業員に対し仲間ではその取り扱いについて続いて申し合わせている。
1、それぞれの工場で弟子として雇入れる長期契約の奉公人は親元や保証人をよく確かめ、
請書に印鑑艦を押させてから雇入れる事。
1、職人(細工人)に申し伝えなければならない事がある場合は関係の年行事の立ち合いで行なう事。
1、勤務している奉公人が長期契約の期間、無事勤め上げ、紺屋職に入ろうとする者にはその雇主から年行事に報告し、
商売ができるように世話する事。
1、奉公人が契約期間、勤めたも のは雇主と年行事に指導を請い、仕事を始める事。
1、年季奉公人が勝手に退職し、また契約期間中、不行跡や勤務不良の者はその件につき組し、
紺屋は申すに及ばず似た商売に携さわせない。
1、紺屋の中で奉公途中にその工場を出たものは紺屋の仲間中では雇入れない事。
1、給与を取る奉公人を雇入れる際は充分に経歴等よく聞き取る事。
1、給与取りに対しては半年季又は一年の契約とし、紺屋に入り、賃金の前借りをしながら仕事もせず、
契約途中で他の紺屋に行って仕事をすることが度々有ったが今後、
このようなことが起こらないよう に工場間でよく聞き合わせてこのような不好な者を雇入れないようにする事。
1、給与取職人の雇入れ時期は今後、二回に分け、五月の節句後、十一月一日後に定める。
1、給与取の賃金はその時の物価に準じて定める事。
1、半季の職人の前借りは銭三貫目を限度にする。しかし勤務が続かないものには相応にすべきの事。
1、日雇の者には前借りをさせない事。
1、給与取職人の雇入れ、退職の際は年行事に報告する事。
1、職人を雇入れ、賃金を定め、前借りしたものは職人より証文を取っておく事。
等、従業員対策の数々が同業者間に定められている。
この文書によるとその時代には日雇労務、給料取りと賃金のもらえる職人は二種類に
限られていたが定書を見る限り半期、一年と契約が別れていたようで仲間では紺屋の中では一応、
五月と十一月の二回に分けるとなっており、おそらく半年ごとの給料であったと思われる。
そのためその日暮しであった人々は生活のため給料の前借りをせざるを得なかったのではないかと
考えると定書に書かれた職人さんとのトラブルが発生する素地は給与体系にあったと言えよう。
次回(4月1日更新)へ続く→紺屋仲間の変遷
【参考文献】
京黒染 著者 生谷吉男 京都黒染協同組合青年部会
発行者 京都市中京区油小路通三条下ル三条油小路町一六八番地 理事長 古屋 和男
発行日 昭和六十三年三月三十一日
AM10時~11時から16時~17時ぐらいで来れる方募集します。
長期で来られる方優遇します。
HPを見ていただき仕事の内容を大まかに理解の上ご連絡ください。
年齢不問、
仕事内容はネット更新、お客様対応、写真撮り、カルテ作り、工房のお手伝い、工房の商品作り等です。
興味のある方はご連絡お待ちしてます。
まずはお電話してください。更に詳しくは馬場まで 電話075-221-4759
2.江戸時代の茶染業
こうした茶染屋の存在は明らかであるが、江戸時代の度重なる大火で記録が失われて
おり、
茶染業の多くを明らかに出来ないが”京羽二重”には茶染師について営業内容と
茶染工場の所在を名称不明であるが記している。
茶染師
一切色々の茶、吉岡、楕拠子染等これをなす。室町一条の北に茶染師の名家あり。
其外西洞院四条坊門より南にあり。
室町一条上ルの茶染の名家については不明であるが、西洞院四条下ルには古くは吉岡
憲法家があり、何か関係があるのではないかと思われる。
又、天保二年(一八三1)刊行
の「商人買物獨案内」に茶染屋として次の三軒が名を出している。
・糸茶染所 元誓願寺堀川西へ入町 山形屋作兵衛
本梅椰子染所
・お召茶染所 西洞院二条上ル東側 鍵屋嘉兵衛
本檳榔子染
・お召茶染所 西洞院二条上ル二町目 柏家平兵衛
面白い事に鍵屋も柏家も「商人買物獨案?」に広告文を記載し、鍵屋は本檳榔子染に
ついては世間には色々の看板を上げて染めているところがあるが私の家は先祖伝来の染法で行なっており、
「染上り品の反末には印形を押して差し上げますので名前をよく確かめて下さい」とことわっている。
又、柏屋平兵衛では次のような長文を記載し、檳榔子染の効用を誇示し、他の黒染と
の格差を強調している。その所在地は現在(昭和63年当時)も変っていない。
一本ひんろうじ染之儀ハ、私家二先祖より本法の染方相伝御座候而、格別御召地之御為宜く、
地性よくしまり、つやよく、次第二上品之黒ミ出、色合不替、地合よハり不申候間、
御着用被遊候て、其功能甚多候。且、檳榔子茶種の功能、
是又多御座候得而、本艸之書=くハしく見え候由。
故=衣類”染用候而、第一風寒雨露湿気を不受、暖温の悪気を払ひ、妖邪不浄を退く、
其口候へハ、黒染と申ハ皆ひんろうし染=限り、御上着物=御座候。
然ルニ檳榔子染ハ料志六ケしく相成候節、吉岡兼法と申人、檳榔子を不用、
はくろにて染出し、 是より以来けんぼう黒のミニ相成、檳榔子染ハ名のミニて、
本法の染方知る者さへ無之、中絶仕候。
然る=近年、檳榔子多分渡り 下直=相成候故、別而御為宜く侯様、そめくさ 沢山=相用ひ、
色合よく格別入念下直=出来仕、奉差上候。何卒御染させ被下、御ためしの上、
追々御用被仰付可被下侯様、 奉願上侯、
御召茶染所 西洞院二条上ル二町目
柏屋平兵衛
近来、本嶺拠子染と申、世間=段々類染多出来仕候而、
甚紛敷御座候間、私方之染ハ、御地之端又ハ御衿肩=「本檳榔子、 柏平」 如此印致、
さし上申侯。御吟味之上御用被仰付可被下侯、巳上。
文化十四年丑十一月=相改
両者共檳榔子染の前に「本」という冠称を付けて本物を強調し、本文では楊梅皮によ
る黒染と一線を画しており、
近来憲法染 の黒のみになっており、核郷子染は名ばかりで檳榔子染の染法も忘れ去られていたが、
最近になって核憾子が多く舶載され、値も下ったので染料を多く用いて入念に染め安価に出来るようになったことが強調され、
他工場でも本檳榔子染と称して多く染めているが本工場では当方の責任印を押していると記されており、
当時でも色々の面で競争しており、反末の捺印 による保証などは現在にも通ずる話である。
この文の中に檳榔子の薬用について瘴気による病気や風邪を直すなどの効用が本草(薬学)に書かれているが
この薬を染料として使うため染めた衣服を着用すれば諸々の悪邪をしりぞけると強調しており、
薬用植物で染色しているという着用者の心理をつく内容となっている。
本文中に檳榔子染が憲法染より以前にあり、吉岡憲法が檳榔子染か
とら檳榔子を抜いて黒染法を完成したとあるが、史実に乏しい。
茶染屋の営業色相については一応どんな色でも扱っていたとは言われているが、
桂染工場 に現存する明治三十三年巴里薦国博覧会に出品して
金賞を得た染色切れを貼り付けた金屏風を見ると染色された色相名は次のようになっている。
・61色ほどある。
以上の色相は全てダーク調であり、茶染屋の取り扱い色目は第三章でもわかるように
五倍子、楊梅皮を中心とした媒染々色であったため、主流の色合いは黒、 グレーを基調としたものとなっている。
紅、紫、紺色等の単彩な鮮明色はそれぞれ専門の職種があり、
鮮美色は京羽二重に登場してくる紅染司である小紅屋和泉禄や松屋伝右衛等、紫染司の江戸屋源兵衛等が染
していたのであろう。
当時の染色業者は呉服商の下職、つまり委託加工として染色業を営んでいたが、呉服商も染色工場を独占したり、
我が意の通り動かそうと図っていたと思われるが、
一方染工場側も預り商品の入質等を行なう不埼な工場もあったようで、
お上に取締りを願い出たり、また呉服業者が出入りの染色業者より
保証人連署の誓約書を取るなどして不正を防止していたようで
江戸後期においては取引上色々と問題が起きていたことが伺われる。
そうした中で現在の組合組織である茶染仲間が寛政十二年(一八〇〇)には既に結成されており、
次のような茶染業者が加入していたと見て差し支えない。
・十文字屋喜兵衛
・六文字屋庄兵衛
・柏屋甚 助
・井筒屋平兵衛
・柏 屋平兵衛
・鍵屋嘉兵衛
・丸屋勘兵衛
・井筒屋善兵衛
・小屋源助
次回(3月4日更新)へ続く→京の紺屋仲間の結成
【参考文献】
京黒染 著者 生谷吉男 京都黒染協同組合青年部会
発行者 京都市中京区油小路通三条下ル三条油小路町一六八番地 理事長 古屋 和男
発行日 昭和六十三年三月三十一日
1. 黒染業の創始
黒染がなりわいとして文献に現われてくるのは四条西洞院に居をかまえていた吉岡憲法である。
兵法家として名高く小説宮本武蔵にも登場しているが、永く四条西洞院で憲法染として営業をしていたようだ。
そして吉岡家の開発した黒染は当時黒茶染とも呼ばれ、
「憲法染」
「けんぼう染」
「吉岡染」
の名称が固有名詞として付けられ、広く染色家にて染められていた。
現在の黒染業者のルーツを系譜によって訪ねてゆくと、明治及びその以前においては染色業の中で次のような職種に分かれていた。
イ、茶染 黒及び茶系色、グレー等の鮮美色以外の染色
ロ、紺屋 型付防染したものの地染、黒染の下染票
ハ、監染 紺色の無地染
こうした江戸時代の三職種の中で黒染を行なっていた茶染業 について黒染業界内の文献、言い伝え等によって現存工場のルーツを探ると次の三社に行きつく。
柏屋平兵衛 創業 宝暦十三年(一七六三)
柏屋甚助 創業 明和 元年(一七六四)
小桝屋源助 創業 文 政四年(一八二1)
これらの工場が黒染業界の祖と考えられる。
このような現在盛業中の工場の外に廃業されているとはいえ業界の重鎮として江戸時代から明治、大正、昭和と永く業界に貢献した工場として次のような工場があった。
井筒屋 松村平兵衛 創業 慶長年間(一五九六~一六一四)
丸屋 木村勘兵衛 創業 享保十年(一七ニ六)
柏屋平兵衛の初代長治兵衛は主家柏屋善之助方で二十五年の間徒弟、
番頭を経て宝暦十三年、三五歳で宿這りし「柏屋平兵衛」を創始した。したがって現存する黒染工場中最も創業が古く、
次いで明和元年(一七六四)に初代柏屋甚助、西洞院四条上ルで別家独立している。
初代甚助は茶染業であった柏屋治右衛門(中村屋)に奉公、茶染業を修業し、
主家が代々後家となったため踏み止どまって面倒を見ていたが、主家からの勧めもあり、明和元年(一七六四)に柏屋を継ぎ別家独立した。
別家独立後、町内(鰭鄭山町、古西町)の当時の青年会の世話をし、町内の人々によく慕われていた。
その後天明の大火(一七八八)に遭い、家を焼失したが、西洞院蛸薬師下ル古西町の町家 (町内の持家)を町内の方々の好意により購入して移転した。
蛤御門の変(元治元年(一八六四))の大火では柏屋甚助工場も大火に遭い、家・工場共に焼き出されたが、書類やその他重要品は井戸 に投げ入れたり、
蔵にしまったりして難をまぬがれたと伝えられている。
柏屋平兵衛、記録によれば文化年間に既に大きく活躍をしていたと思われるが、
現存する記録も少なく、言い伝えも途絶えているので江戸時代の活動は不明である。
しかし柏屋を称する茶染屋となると主家の柏屋治右衛門に継がれるのではないだろうか。
また江戸時代よりの住所である西洞院夷川上ルの奥田家本家は広い敷地を占めていることや、
後述の文化年間の広告文等から推定して当時から手広く工場を経営していたと推定される。(昭和63年時点)
次回(2月25日更新)へ続く→江戸時代の茶染業
【参考文献】
京黒染 著者 生谷吉男 京都黒染協同組合青年部会
発行者 京都市中京区油小路通三条下ル三条油小路町一六八番地 理事長 古屋 和男
発行日 昭和六十三年三月三十一日
馬場染工業がYouTubeデビューです✨
今回出演させていただいたチャンネルは「Let’s ask Shogo」様です!
なんと、チャンネル登録者数80万人の超人気ユーチューバー様です。
京都の魅力を英語で世界中に発信しておられます。
大人気YouTuberが取材に来るという事で5代目&馬場染工業のスタッフは
当日までソワソワしてしまいました。 😳
撮影日当日は流暢な英語を話されていて、スタッフ全員目が点になり、、😳
英語を交えながら体験工房の様子を分かりやすく紹介されていて
YouTuberって凄いな~と傍で見ていたスタッフ(私達)は感激🙄
撮影が無事終了し、帰られた後は英語トークで盛り上がった馬場染工業なのでした。。
今回出演させていただいた動画はこちら!!
とても素敵に撮っていただいています!ありがとうございます✨
是非ご覧ください😍Please have a look👐
Choose Your Kamon from 5,000 Crests at a Dye Shop in Kyoto
(撮影依頼全力でお待ちしております!!!ワクワク👀)
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