5.明治御一新と染色業界~黒染めの歴史~
明治の大変革を乗り越えて
5.明治御一新と染色業界
幕末から新しい秩序を打ち立てる戦いが続き、京都市民もまた蛤御門の変による鉄砲焼けの大火で大きい被害を受け、
その傷も癒えぬ内に鳥羽伏見の戦いと騒然たる世相の続く中で明治御一新(1868)を迎えた。
京都に京都府が設けられ、経済活動が新しく始められ、
早くも明治元年九月には商売を行なっている者には従来下付されていた鑑札を全て廃停し、
新鑑札を下付するように布告が出されているが商工業の上にも大きい改革がせまられて来た。
このような大変動の中で茶染屋、紺屋等の大先輩は如何に身を処していったのか想像することも困難である。
その上に加えて天皇は東上したまま帰京されず明治二年(1869)には東京遷都が反対を押し切って実施された。
今まで政治、文化の中心として京都に各地から人々が集まり、多くの人々を基盤に、
そして日本各地を対象に商いが行なわれて来ていたが文武百官が打ち揃って東上してしまい、
各藩邸も閉鎖され、経済的に大きい空白を生じた。
また京都の有力商家も東遷した経済の中心を求めて相次いで東上し、京の町も目に見えて衰退し、
時の京都府知事が一有力者の東上阻止を図って訴えられる事件までが起きるような状態であった。
そして高級品の加工を行なっている京都の染織業界は染織物の良き理解者であり、
商いの上得意であった人々の東上によってピンチに追い込まれていった。
京都市内は櫛の歯が抜けたように空家が目立つようになり、御所の内外にあった宮家や公卿の邸は無人となり、
人口の減少も著しく、その上、インフレ不況下におかれるなどして経済の不振をまねき、
染色業は苦難の道を歩むことになった。
時の政府は京都の苦難に対し、産業振興のため西洋科学知識の普及を図るべく舎密局の仮局を
明治三年十一月に河原町二条に設置し、また勧業場が河原町二条下ル一之船入町の旧長州藩邸に開設され、
これらの施設の活動は京都経済界の再興の基盤となっていた。
京都府の記録によれば明治五年に於ける染色関連業者数は次のようになっている。
- 石灰並びに諸灰 三四戸
- 藍蝋、藍玉 一五戸
- 染艸(染草) 一九戸
- 染物 五四一戸
- 紺屋 四〇六戸
- 藍染 八二戸
染色工場の数が千戸を越している。
こうした時代の激変を業界の先達がどう受け入れていったかは不明である。
しかし舎密局を中心に洋式の染色加工技術の指導が行なわれ、洋粉(化学染料)による染色を手掛ける工場も出て来て、
色目の鮮明さで一時は需要も出たと思われるが、当時は塩基性染料が主であり、染法もわからず、
ただ色を着けているだけの状態であって日焼けや変色など品質の低下をまねき、一時顧みられなくなった。
そうした事情が有ったのか舎密局では大阪へ人を派遣して英国の黒染法の伝習を行なっている。
明治六年二月
本府舎密所用掛上田吉兵衛及ヒ府下染工數名ヲ大阪ニ遺ハシ。
造幣寮雇入洋入「キンドル」ニ就テ。英國の黒染法ヲ受習セシム
これは洋式染色法、特に黒染を伝習させたものであるが染色の内容はログウッドの鉄媒染による毛織染であり、
当黒染業界の者も大阪へ出張した染工の中に含まれていたものと思われる。
当時舎密局では染色技術の振興に力を入れており、また西洋染色術の伝習には特に力を入れていた。
オーストリア博覧会の日本事務局随員としてウイーンに出張していた正院(政府)御用掛(農商務省勧業課技師)の
中村喜一郎が帰朝していたので明治七年十二月一日付けをもって京都府に着任せしめ、
ヨーロッパの染色法の伝習に当たらしめた。
中村技師の講習には一般業者を督励して殆んど強制的に聴講せしめたようで
中村はその後十五年まで舎密局染殿でもっぱら染色の指導に当たった。
舎密局では洋式染色法の正しい技法の指導と普及を推進するため舎密局付属として
実験場内に明治八年十一月に染殿を設置し、合成染料の色染法を教授し、
また河原町蛸薬師下ル東入ル備前町に京染場を設置して実物の染色工場として運用し、
一般から受注するようになった。
また京都府では夷川通の舎密局の前に西洋色染所を明治九年に設け、
染色の伝習希望者に教授するなど染色技術振興のため多くの施策が講じられた。
当業界の多くの先輩も伝習に参加した事と想像される。
しかし茶染業、紺染業、藍染業はいぜん、江戸時代のままの植物染料で染色しており、
輸入された化学染料による染工場を洋粉工場と呼んでおり、
茶染業の一部には油小路四条上ル永井新之助のように洋粉茶染工と呼ばれた茶染工場もあった。
次回へ続く→染色業界の組織化
【参考文献】
京黒染 著者 生谷吉男 京都黒染協同組合青年部会
発行者 京都市中京区油小路通三条下ル三条油小路町一六八番地 理事長 古屋 和男
発行日 昭和六十三年三月三十一日